真に幸せになるための法華経 妙法蓮華経 授記品第六
前回、薬草喩品第五では「三草二木の譬え」によって、人間は形の上に現れた差別相と本質における平等相をこの譬えによって悟らなければならないというでした。
今回は四大菩薩の内の一人である魔か迦葉(まかかしょう)が授記されます。それを見ていた他の3人である目けん連(もっけんれん)・須菩提(しゅぼだい)・迦旋延(かせんねん)も授記をお願いします。それを譬え話にしたものを紹介します。
「大王の膳の譬え」
今の3人の心境をたとえて申しあげます。飢えで苦しむ国から逃れて来て、いきなり大王のもとで見たこともないご馳走の前にいるようなものです。大王が食事をしなさいとおっしゃらないと食べてよいのかわからず、食べることができません。一言、大王に食べてよろしいと言っていただければ喜んで食事をすることができます。
この譬えの意味合いは、いつか仏になれるという仏様の教えを伺いながらも、果たしてなれるのか心配です。それは丁度、譬え話のように大王のご馳走が目の前にありながら、食べることが出来ないものの心境と同じということです。
そこで、「お前も仏になれる」と成仏の保証を願い出ます。そして3人は授記されます。法華経は授記の経と言われ、法華経は一切衆生に授記されるお経です。
授記の本意と受け取り方は、仏になれるということを自分だけの喜びとせず、最終的に世の中の全ての人々を幸福にするという受け止め方をすることが大切です。
授記とは「如来の十号」を具えた人になれることを保証するもの
①如来(真理)の体現者 ②応供(おうぐ)供養の対象者、尊敬に値する
③正偏知(しょうへんち)智慧が全て行き渡り④明行足(みょうぎょうそく)言行一致
⑤善逝(ぜんぜい)悪事をせず善事を行い、迷いから離れる
⑥世間解(せけんげ)世の中や相手の事を知り ⑦無上士(むじょうじ)完全な人格
⑧調御丈夫(じょうごじょうぶ)自身の内外の魔に打ち勝ち、自由にどんな人も導く
⑨天人師(てんにんし)天上界・人間界の大導師
⑩仏・世尊(ぶっせそん)最高の真理を悟り、この世では最も尊い存在
お釈迦様は「あなたは仏である」とおっしゃらないで、いつかあなたも修行次第でなれると言われ、安易な保証ではないが、希望がもてます。仏様はあの手この手で導いて下さいますのでありがたいです。
次回は化城喩品第七に入りますが、ここで世尊は現世の修行を励まし、未来世の成仏を確信させる為に過去世の因縁を聞かせてくれます。
真に幸せになるための法華経 無量義経 薬草喩品第五です。
前回、信解品第四では、信(感情)+解(理智)を両方兼ね備えることによって、本当の信仰になると学びました。
それでは、薬草喩品第五に入ります。
「山草(薬草)二木の譬え」
この世のすべての山、川、草木、森、には様々な薬草があり、これらの草木が渇きで雨を求めている時、上空に雲が一面を覆い恵みの雨が四方に等しく降り注ぎます。そして、どんな草木にも、差別なく平等に降り注ぎます。仏の教えは丁度そのようなものです。雨によって乾いた大地は活気づき、草木はそれぞれの分に応じて雨を受け止め、みんな勢いよく茂っていきます。草木の大小や種類によって雨の受け取り方に違いが生じます。まさに仏の教えと衆生の関係も、これと同様であると言えます。如来がこの世に出現するのは、大雲が世界を覆い、全体に雨が降り注ぐようなもので、如来は世界中を大きく包み込み、生きとし生けるものすべてを教えによって、救おうとされるのです。
「私は真理の体現者であり、真如の世界からやってきた者です。人間のうちで最も尊い存在です。私が世に出現するのは、まさに大雲が湧きおこるようなものです。一切の人々の枯れ果てた心に潤いを与え、全ての苦から離れさせ、心の安らぎによる幸福と、世間的な幸せを与え、全ての現象、万物と調和した境地を得さしめる為に、この世に出現するのです。」
仏はあらゆる衆生の気根を知り、悟りへと導くのです。
仏の四弘誓願
「未だ度せざる者は度せしめん」「未だ解せざる者は解せしめん」
「未だ安ぜざる者は安ぜしめん」「未だ涅槃せざる者は涅槃せしめん」
菩薩の四弘誓願
「衆生無辺誓願度」衆生の数は無限であろうとも、必ず一切を救おうと誓願する
「煩悩無数誓願断」煩悩の数は無限であろうとも、必ずすべてを断ち切ろうと誓願する
「法門無尽誓願学」仏の教えは無尽であろうとも、必ず学び尽くそうと誓願する
「仏道無上誓願成」仏の悟りは無上であろうとも、必ず成就しようと誓願する
この四弘誓願は仏を信じ、仏法を学び、仏道を成じようとしている者にとって、基本的な共通の総願です。
仏法の三つの特質智慧
①「大雲の世間に起こってあまねく一切を覆う」
雲はもともとは大地の水蒸気が立ち上がって出来たものである為、仏教は世間において起こったものです。天の神と言った目に見えぬ存在が降りてきたものでなく、人間の人間による人間の為の教えです。
②「あまねく一切を覆う」
決して特定の民族や階級だけのものではありません。
③心の渇きを癒してくれるものは本当の智慧である。永久的に心の苦しみを救うのは真理を知る<智慧>よりほかにはないのです。
仏の救いはいろいろな形があるように見えるけれども、根本においてはただ一つであり、全ての人々に平等に注がれるものである。それを受ける人の天分、性質、環境その他条件が違うから形の上に現れた仏の教えも救いの結果も違うように見えるだけで、全ての人を平等に救うものであって、そこが仏法の妙である。
「仏法の救いの形の上に現れた差別相と本質における平等相を知れ」ということです。
次回は受記品第六です。
真に幸せになるための法華経 信解品第四 13
妙法蓮華経 信解品第四 13
前回は比喩第三でした。今回は信解品第四(しんげほん)です。
舎利弗への受記を目の当たりにした四大声聞(摩訶迦葉(まかかしょう)・慧命須菩提(えみょうしゅぼだい)・摩訶迦旋延(まかかせんねん)・摩訶目健連(まかもっけんれん)は方便品での諸法実相の意味と方便を用いて仏性を見出し、悟らせるという仏の慈悲を信解することができました。
そこで、今度は四大声聞が信解(領解・理解したこと)したことをお聞き下さいと
申し出て、「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え」を話します。
長者窮子の譬え
ある人が幼い時、無知であった為に父のもとからさまよい出てしまいました。諸国を放浪しその日暮らしをしていました。しかし不思議な事に自然と父の元へ進んでいたのです。
父は子供を失って悲しみ、子供を求めて探しましたが、探し出す事が出来ずにいました。そこである都に留まり、大変、家は栄えていました。金銀財宝、使用人を有し、多くの人に慕われて、国王からも尊敬を得ていました。そして50年あまり一時も息子の事を忘れた事がありませんでした。しかし、年老いて、財産を相続する者がいないことを考え、子供がいたらどんなに安心できるかと思案しました。
そうこうしているうちに、息子は父の住む都にやってきました。まだ知りえない父である長者の威厳ある様子を見て、恐怖心を覚えました。自分は貧民街の方があっている、早く逃げ出さなければ捉えられるかもしれないと走って逃げました。
長者は一瞬にして我が子であると気づき、家来に連れてくるように命じました。
連れてこられた子は恐怖のあまり倒れてしまいました。そして水をかけられ気がつき、又、貧民街へ帰っていきました。長者は子が卑屈な心になっているから帰えしたのでした。今度は長者はみすぼらしい姿をした使用人に我が子に良い仕事があると言って連れてくるように言いました。どんな仕事かと聞かれたら、糞尿を処理し、ドブなどの掃除をする仕事だと言いなさいと言いました。
子は話を受け入れついてきましました。そして、賃金先払いで受けとり、汚物掃除を始め、一生懸命働きました。長者は哀れな子の姿を見て悲しくもありました。すると長者は自ら汚い着物を身にまとい、働く者達の所へやってきて、声をかけ、警戒心を解きながら近づいていきました。
窮子に安心してずっとここにいるとよいといいました。窮子という名前をつけて仮の子にしたのでした。それから20年の間、不浄の仕事を続けさせました。20年も過ぎるとオドオドしなくなったので、長者は病気になり、財産管理を任せるといいました。
そして、子の卑屈な心がなくなりすべてを任せても良いと判断し、皆を呼び寄せ、窮子は実は私の実の子だと言いました。全ての財産はこの子のものです。と告げたのでした。
四大声聞は信解したことをこの譬え話をもって申しあげました。
解 説
大長者=仏様
窮子=我々
①愚かである凡夫の我々に慈悲の手を差し伸べてくれる仏様を表しています。
②流浪のあげく仏様はいつもそばにいて下さる。
③煩悩の殻(芥を掃除)を除き仏の子であるという自覚を促す。
④おもむろに導く。一遍に切り出すと警戒される。
⑤現世利益を説く。初めから高尚な事を言っても、受け入れてもらえない。
⑥長者自ら粗末な衣服を着る。この事は仏様のこの世への出現を表している。
⓻慈悲の現れ。かわいそうだという情け心。
⑧所帯道具や食料を与える。これは心の拠り所を与えることを表している。
⑨使用人を付ける。信仰を持てば自由自在になる事を表している。
⑩仏に生かされている。
信と解、両方を兼ね備えているのが本当の信仰である。
全ての人に仏性があり、悟りに近づくことが出来ると譬え話で解りやすく説かれている品です。
こうして、四大声聞が比喩品第三での理解したことを信解品の譬え話を通じて申し上げました。
次回は薬草喩品第五に入ります。
真に幸せになるための法華経 比喩品第三 ①
妙法蓮華経 比喩品第三 前回は開三顕一・あるのはただ一仏乗・五濁の悪世でした。
今回は比喩品第三に入ります。
方便品で唯一、舎利弗がのみが教えを理解し、この比喩品でいよいよ舎利弗が受記されます。舎利弗が誰でも成仏できるという教えを聞いて大感激し一大決意をします。今は声聞の身だが菩薩を教化するという決意です。
そこで釈尊が前世で舎利弗を導いたことをい告白されます。しかし、舎利弗がこの世ですっかり其のことを忘れて完全な涅槃を得たと思こんでいた為に、そこで、「本来の
願い」を思い起こさせる為に舎利弗を始め、多くの声聞の皆さんにこの法華経を説くのです。
そして舎利弗が遥か未来において多くの仏に仕え、菩薩行を完全に実践し、その結果「仏になる」ということを保証されます。
そして、舎利弗がいまだ法を理解していない者達の為に誤解と混乱をなくす為にさらに教えを懇願しました。
そこで三車火宅の譬えが説かれました。
三車火宅の譬え
ある町に大長者がいました。大長者は年をとっておりましたが、膨大な財産と500人程の使用人が住んでいました。屋敷は広大ですが門は狭く一つしかありません。家の柱は腐り、壁は崩れ、荒れ果てていました。家の中はカラス・ネズミ・狸・蛇・ムカデ・等が走り回っていました。ある時、長者が出かけたおりに突然、火事になりました。火が燃え盛っていて逃げまどっています。そこへ子供たちが遊びに夢中になり、家が燃えていることも気づかずにその家へ入って行ったのです。
長者は出先でそのことを知り大変驚きました。遊びに夢中になっている子供たちは焼かれそうになっていても気づかず逃げようともしない。とっさに一つの箱に入れて運び出そうと考えたが、門は狭くこぼれ落ちてしまう子がでるかもしれない。そこで長者は火の中に飛び込み、出るよう説得しても一向に出ようとしません。そこで欲しいおもちゃが3つ(羊の車・鹿の車・牛の車)があるから好きなものを取りなさいと言って、やっと救い出すことができました。
逃げ出した子供たちは父の姿を見ると早くおもちゃを下さいとせがみますが、父は子供たちの欲する三つの車では無く、美しい純白の牛が引く車を子供たちだけではなく、周りにいた使用人たちにも与えたのでした。そしてその車に乗って自由自在を楽しんだのでした。
長者=仏
狭い門=我を捨てる(貪欲を捨て自己中心を無くし皆平等である事)
子供=衆生
火=我・貪欲
家=娑婆世界・人生
羊車(ようしゃ)=声聞乗(いい教えを聞いていれば心が休まる)
鹿車(ろくしゃ)=縁覚乗(一人静かに縁によって悟りを得ようとする)
牛車(ごしゃ)=菩薩乗(人を幸せにすることによって生きがいや喜びを感じる)
長者が仏様、子供は私達衆生、燃え盛る火は娑婆世界です。今の世界そのものです。
そんな私たちを一人残らず救うにはどうしたら良いかと考えられ、方便でそれぞれが欲しがるおもちゃを出しました。子供たちはおもちゃをめがけて自らの足で火宅から出てきました。
狭き門という闇から一体感という方便を用いて救って下さった。
それだけではなく、闇(我・貪欲)から光の世界(調和・諸法実相)=(大白牛車)へ導いて下さった。仏様は子供たちが欲しがっていたもの(現世利益)だけではなく、本質的な救いの道を説かれたのです。
次回は信解品第四です。
真に幸せになるための法華経 方便品第二 ③
妙法蓮華経 方便品第二 ③ 11
前回は一大事因縁・開示悟入・十如是の解説をしました。
今回は開三顕一に入ります。
開三顕一(かいさんけんいつ)
字の如く、三乗を開いて一乗を顕す。
仏の願いは全ての人を仏の境地に導きたいという一言につきるのです。声聞、縁覚、菩薩の区別はないのです。声聞、縁覚、菩薩も自分で気づいてなく実は仏の境地に向かって歩いているのです。今はその途中にいるということだけなのです。
あるのはただ一仏乗
一仏乗とは三つに分けた教えがあるのではなく、方便によってそれぞれの段階の人に相応しい教えを説いたのであって、仏の真実の教えはあくまでも一つです。これが一仏乗です。
五濁の悪世(ごじょくのあくせ)
仏がこの世に出られるのはよくよくの時です。 世の中に汚れが満ち満ちてどうにもならなくなった時にそれを救う為に現れるのです。 その汚れが五つに分けられるのです。
劫濁(こうじょく)・・・時代が長く、古くなった為に起こってくる悪。 マンネリ化し
ている状態
煩悩濁(ぼんのうじょく)・・・煩悩・わがままが盛んになって起こる悪。
衆生濁(しゅうじょうじょく)・・・一人一人立場、性質の違いにより、譲る精神が少
なく我を通して全体の調和を崩す。
見濁(けんじょく)・・・ものの見方がそれぞれ違う為に自分本位の見方をし、正見を
覆い隠し世が濁る。
命濁(みょうじょく)・・・先行き不透明で目先の利益や効果を追い求める考えをす
る。
一人として成仏しない人はいない
この法華経が「受記経」と言われる最大の理由がこのお言葉なのです。 方便品では舎利弗が受記されますが、全ての人が必ず仏の境地に到達できるのだと確信が持てるのです。 この法華経を学び、少しでも実践することによって大歓喜を感得できるようになります。 それがこの法華経の大功徳なのです。
次回は比喩品に入ります。
真に幸せになるための法華経 妙法蓮華経 方便品第二 ② 10
妙法蓮華経 方便品第二 ② 10
前回は方便品に入り、無問自説、髄宣説法、四無量心、三止三請、五千起去、を解説しました。
今回は一大事因縁、開示悟入、十如是を解説します。
一大事因縁
仏がこの世に出たのには理由があった。目的、異議があった。その目的が開示悟入す。
開示悟入(かいじごにゅう)
開・・・全ての人に仏の智慧の眼を開かせ清らかな心を呼び覚ます事
示・・・本来は皆、仏の智慧を具えていることを示す事
悟・・・皆に仏の智慧を体験によって悟らせる為
入・・・仏の智慧を成就する道に入らせる為
仏は全ての人に仏の智慧を得させる為に、つまり開示悟入という行いをさせる為に出られたのです。
一法=諸法実相=十如是
無量義経で無量義は一法より生ずとありましたが、この時点では明かされず、ここでこのように明かされました。
一法が諸法実相であり十如是である。あらゆる教えの根本で智慧の大本、光の根源であることが序品での仏の眉間からの光で象徴的に表わされていました。
十如是
相 諸行無常 諸法無我
性 力 作 = 因 縁 果 報
体 (私)(相手)
調 和
(因縁和合)
(本末究境等)
この図は十如是=諸法実相の活用です。理想の人間関係を図式にしたものです。
因となる大本の心(私)が本となり、縁(相手)の触れてもたらされた結果=果報という結末となり「本」と「末」は調和してふさわしく本末究境等している。
良い考えには良い縁に出会え、悪い考えには悪い縁に出会いそれぞれにふさわしい結果がもたらされ、人のせいにするものは何もない。全て自分であるということです。それで調和が保たれており、この世が成り立っています。究極の真理を表したものです。
次回は開三顕一です。
真に幸せになるための法華経 妙法蓮華経 方便品第二 ① 9
妙法蓮華経 方便品第二 ①
前回 は無量義経では菩薩が対象でしたが、序品に入り、一般大衆が対象になり、心構えを教えて下さいました。その前兆としていろいろな奇瑞が現わされ、その中で仏の眉間から光がさしたとありますが、これはいよいよ方便品で真実が説かれるということです。
方便品第二に入ります。
無問自説
今までは質問に対して説法されてましたが、真理はあまりにも深淵なため、誰にも理解されないであろうことから、今度は誰からも請われることなく舎利弗に向かって仏様が自ら説法を始められました。
髄宣説法(ずいぎせっぽう)
仏はこれまで相手の機根に応じて適切に解き分けてきました。これを髄宣説法といいます。
四無量心(しむりょうしん)
仏は智慧と方便を兼ね備えているから出来たことです。そこへもって四無量心を併せ持っておられます。
四無量心は慈悲喜捨(じひきしゃ)の四つです。
慈・・・人を幸せにしてあげたいと思う心
悲・・・人の苦しみを抜いてあげたいと思う心
喜・・・人の喜びを共に喜ぶ
捨・・・人に施した恩も、人から受けた害も忘れ、一切の報いを求めない心
三止三請(さんしさんしょう)
ここまで説いてこられた仏様がここで突然説くのをやめたのです。
それは仏様は過去世において無数の仏につかえ、修行をしてきたから仏と仏の間でしかわからなく、あまりに真理は深淵だから一般大衆には無理だからです。
しかし、舎利弗は他の者達からの熱意もあり三度にわたり、真理を説いて欲しいと懇願したのです。これを三止三請といいます。
五千起去(ごせんききょ)
するとその場にいた出家・在家の五千人の人達が去って行ったのでした。
これは悟ってもいないのに悟っていると思いこんでいて、業が深く驕慢だから最高の教えを受け入れることに耐えられなかったからでした。
五千人が去った後、今ここにいる者は最高の教えを受け止められる力のある者達だから真理を説くことにしたのでした。
ここで諸仏出生の一大事因縁である開示悟入を説かれました。
方便品の要点
①全ての人間は仏性を備えているから仏性を自覚させること
②相手の機根に応じて説いてきた方便もすべて真実だということ
次回は一大事因縁・開示悟入の解説をします。